宇佐市院内町の石橋


 宇佐市院内町には江戸末期から昭和初期にかけて建造された石橋が75基あります。今でも生活橋として住民の暮らしにしっかりと根づいています。
 石橋は古代ローマが発祥の地で、日本には17世紀に、中国の僧が長崎に伝えたのが始まりと言われています。1632年に長崎に作られた「長崎眼鏡橋」によって、アーチ式石橋は通称「めがね橋」と呼ばれるようになりました。アーチ式石橋を作るための技術は肥後に伝わり、その後全国に広まりました。

 宇佐市院内町の石橋は肥後から直接伝わったのではなく、関東・関西に伝えられた架橋技術が伝えられました。
駅館川の支流恵良川はU字型をした深い谷となっており、祖先は木造の橋にかわる石造りの橋を架けたいと念願してきたのです。集落と集落を結び生活を守るための橋、水田耕作に必要な水路を渡すための橋、祈りを捧げ彼岸に渡るための橋など生活に密着した小振りの石橋が多いのが特徴です。
 これらの橋は、集落を維持し、発展させるため必要不可欠なものであり、惜しみなく浄財と労力を提供してきました。この地域には無くてはならない風景の一部となっています。

 「惜しみなく浄財と労力を提供」これがううごつ(大きい事=大変)なんじゃ。5月ん連休ん頃になると「役目」で「田植えん水を通すためん水路ん掃除」をするんじゃ。特に岩をくり抜いた水路、100間まぶ(間風=間歩)ん「泥さらえ」はううごつじゃった。蝋燭と竹で作った「手もっこ」を持っち、四つん這いになっち順番に入っち、前ん人から土ん入った「手もっこ」を貰うち、足の間を通して後ろん人(し)に渡すんじゃ。蝋燭ん煙と湿気でどうにかなりそうじゃった。そげな環境んなかでの作業が続くんじゃ。不思議と酸欠で倒るる人はおらんじゃった。所々に明かりを取る窓が開いちょって、空気ん出入りがありよった。
 ※@現在は水路改修が終わり、「100間まぶ」にも鋼管が敷設された。泥さらえは地上部分が中心となり、「役目」も一日で終わるようになりました。足一騰宮でお伝えした「桂掛井堰(かつらかけいぜき)」とは別の農業用水路の話です。
  A「ん」は「の」に、「ち」は「て」置き換えてください。

鳥居橋

 平成元年11月発行の「文藝春秋」で“石橋の貴婦人”として紹介された「鳥居橋」、夜間のライトアップで、その素朴で、美しい優雅な姿が浮かび上がります。「鳥居橋」は、東九州自動車道(宇佐別府道路)院内インターの直ぐ近くにあります。
 架設 大正5年 橋長 55.15m 橋幅 4.35m 橋高 14.05m 径間 7.10〜11.00m(5連アーチ)

 和尚山頂から見た鳥居橋 鳥居橋上流は東九州自動車道(宇佐別府道路)院内インター 。 足一騰宮で紹介した「桂掛井堰(かつらかけいぜき)」の取水口は、このインターの上流1.5Km位の所にあります。09.02.26 右岸側から見た鳥居橋。大水の時はアーチ部分が隠れてしまいます。
 
 「石橋の貴婦人」も放ったらかすと「あちこち」と毛(草)がはえてきます。むだ毛もときどき剃らないとね!
 石橋の向こうに見える橋は新鳥居橋、その向こうは宇佐別府道路の本線の橋、その向こうの赤い橋は、院内インターに入る橋。橋だらけだあ!(09.06.25)
 鳥居橋のライトアップ ライトの前の笹が邪魔であまり優雅でもなかった。一眼レフのデジカメでないと夜間はつらい。


白岩橋

 明治14年の「大分県統計書」では白岩橋は長さ四十二間・幅一間二尺の橋船で、民営であった。渡賃は人二厘・馬車八厘であった。(大分県公文書館)

 明治32年に、「日出生台が仮想敵地戦場の満州に似ている」として演習場として接収された。そのため重火器を運搬するための軍用道路として、強固な橋が必要となり、明治42年9月28日、長さ51間6分の5連のアーチ石橋が完成した。「白岩橋」は宇佐市上拝田地区と宇佐市院内町香下白岩地区を結びます。(S58.11.30発行 院内町誌等から)
 ※明治42年の架設は、「木橋」だったのではという説や、白岩の石橋は大正時代だという説もある。資料が無くはっきりとは分からないが、「木橋」ではアッという間に流されるような急流、そのため船橋にし、台風のときには取り外していたのではと想像します。とにかく戦前には、5連の石橋があったと古老は伝えています。 

 しかし、この石橋も戦前戦後の大洪水で流され、2連を残してコンクリート橋となってしまった。 ボンネットバスがもうもうと砂ぼこりをあげて走っていた。
 橋の長さ 94.3m(S36−37年頃) 幅員4.50m アーチ部分長さ 39.3m 径間 17.2m*2 橋高 13.70m程度
 残った2連のアーチ部分は、昭和19〜20年の架設のものが残ったものと思われます。
 
 下流の豊州鉄道の白岩鉄橋も流される状況であり、白岩橋は、架ては流され、架けては流されの状況であったようだ。仕方がないので流された部分を、一時「木橋」で間に合わせをしたようにあります。
 有効幅員4m50cm、ダンプが来たときは軽自動車でも離合ができず交互通行。不自由な状態が長らく続いたが、ようやく昭和55年3月に、幅員10.5mの現在の橋に架け替えられ、300番台国道(国道387号=主要県道玖珠長洲線)としての面目を保ちました。
 古い橋は後に取り壊されてしまいました。

 ・・随分昔の話・・
 向こうからダンプ来ていたが、360ccの軽のミニカだったので離合できるだろうと考え、橋の手前の立て看板を無視して入ったら、ダンプのお兄ちゃんからこっぴどく叱られ、怖かった。


 
 ◎左上 現在の白岩橋(国道387号)

 ◎上 実は駅館川を渡らずに済む江戸時代からの旧道があったのです。馬車が通れる位の道幅があります。院内・安心院→鷹栖観音→中津の方に通じていました。明治時代には6人乗りの客馬車や日出生台の演習に行く陸軍の砲車等が通り、鷹栖観音堂の前にはお店もあったそうです。
 私も自転車で何回か通りました。現在は徒歩でなら(長靴を履いて)可能なように見受けました。向こう側が鷹栖観音。

 ◎左 享保年間に先人が苦労して作った桂掛井堰(かつらかけいぜき)の水を渡す「毒水谷水路橋」。旧道の近所にあります。
 川の名前は毒水川。鉱毒などはありませんが、戦国時代左手の山上(妙見山)に城があり、山城に付きものの水を巡る攻防があり、情報合戦により、そのような名前が付けられました。


沈み橋(三ツ又川)

 石橋ではないのですが、珍しい「沈み橋」があります。恵良川と津房川が合流し、駅館川となるところにあり、宇佐市拝田新洞と院内町香下字三又と院内町新洞の3地点を結びます。

 沈み橋全景 左の山が「妙見山」、右の山が「和尚山」です。  拝田新洞地区は旧宇佐市の区域になっていましたが、学校は旧院内地区の学校に通っていました。梅雨時になると学校の先生は雨の降り具合をいつも観察し、早めに該当の生徒を家に帰らせていました。帰る道が無くなるのです。沈み橋に通じる道には通行止めにするための鎖があります。
 ここは「ハエ」などが良く釣れます。アオサギ(?)も魚が来るのをじっと待っています。この橋の上には「吉田屋」という川魚を食べさせてくれる旅館もあります。※伝え聴くところによると近頃旅館をやめたそうだ。(H21.11)  和尚山上から眺めた「沈み橋」全景。左が津房川、右が恵良川、下が駅館川
 右側の橋の上の家が「吉田屋旅館」


松木橋

 鳥居橋の直ぐ近くにあります。国道387号に架けられていますが、幅員が5.5mと狭かったため、コンクリートで全体を補強して、幅員を広げました。元の石橋は観察できませんが、石橋の形をしています。資料によると、この橋を架けた石工は、親戚の石屋の「おじさん」だそうだ。最近まで知らなかった。 
 架設 昭和23年 橋長23.20m 橋幅6.70m(有効幅員5.5m) 径間 20m

 松木橋の新旧比較 (2009=1961) 長さ23.2m
 松木橋の新旧比較 (2009=1961) 当時は当然未舗装、車が通ると息が出来ないくらい砂埃が立ち、前方も2−3分間全然見えないような、ひどい状態だった。


櫛野橋

 櫛野橋は宇佐市院内町香下地区と院内町櫛野地区を結ぶ市道に架かっています。国道387号の前身です。豊州鉄道の跡地にバイパスが新設された後も、地域の生活を守り続けています。
 架設 大正12年 橋長 38.0m 橋幅 5.00m 径間 24.1m

 ◎左上 左岸上流側から
 
 ◎上 右岸から香下掛地区を望む。

 ◎左 豊州鉄道跡地に作られた新櫛野橋から、櫛野橋を望む。


 実はこの櫛野橋の右岸側には、戦国時代真っ直中に築いた平城がありました。説明文によると櫛野氏は16年の歳月を費やして「櫛野水路」を完成したとあります。


高並大橋

  高並大橋は、宇佐市院内町櫛野から院内町高並打上り地区に通じる県道に架かっていましたが、昭和56年3月の夜、右岸下流側が崩壊した。早朝新聞配達をしていた人が川に落ち込みました。
 代わりの橋がその上流に架けられ、旧高並橋の跡には、鋼鉄製の橋が架けられました。(車両は通行出来ません)
  架設 大正10年 橋長 44.50m 橋幅4.50m(有効幅員 3.90m) 径間 14.20〜19.90m 2連 
 ※院内町の石橋(院内町教育委員会H3年作成)によると、昭和56年の夏の夜「高並大橋」が一部決壊したとなっていますが、春だったような気がする。

 
 
 実は、この橋の手前に中学校があって、通学路としてに使っていました。高欄(欄干)が低くて危ないため、先生は真ん中を通れと言っていました。当時壊れるような感じではなかったのだが。
 この付近は水深が深く、大きな鯉が釣れるそうだ。学校の帰りに橋の上から良く見ていた。
 そうそう、その中学校の建っていたところは、昔し草競馬を行っていたところで、玄丹原と言っていました。今は、特別養護老人ホーム「妙見荘」になっています。
 左岸側には、高並大橋の竣工記念碑が立っており、大正10年10月31日に竣工したことが分かる。その横には、道案内の神様「猿田彦太神」が仲良く祭られていた。昔の人が橋に懸けた熱い思いが伝わってきます。


 御 沓 橋

 
御沓橋(みくつばし)は、宇佐市院内町御沓地区と二日市地区を結ぶ橋で大正14年に架設されました。橋長 59.0m 橋高 14.0m 径間 11.0〜15.8m 3連

 展望所から見た御沓橋  展望所から見た御沓橋
 御沓橋 左岸側 「手すりが低い 注意」と立て看板があります。崩れ落ちる前の「高並大橋」もこのような状態でした。  御沓橋の200mほどの下流には、日出生ダムの水を宇佐平野に送るための取水口があります。


石橋ステーション

 地域の情報発信基地「石橋ステーション」は、平成10年11月3日オープン。タッチパネルで石橋の解説をしています。H21.07.04現在タッチパネルは故障中。売店の人に聞いたらずっ〜と故障中とのこと。どこが修理するのだろう?施設を作った市役所・施設を管理している団体・観光協会・・・地域の体力が衰えてくると細かなサービスは見捨てられる。特別天然記念物の「オオサンショウオ」の入った水槽もあり、ドジョウをパクリと食べるところも観賞できます。(嘘を言うな。夜行性だから石の陰で昼寝ばっかりしてるではないか。閻魔大王さんを連れてきて、舌をひっこぬくぞ! ゴメンナサイ(-_-;))
 直ぐ前には、大正2年架設の綺麗な2連アーチ石橋「荒瀬橋」があります。ここも夜間のライトアップをしています。
 

 石橋ステーションの「オオサンショウオ」、散歩で岩の中から外に出ていないかなあと行ってみたら、水槽の中の電球の付け替えてをしていた。前回暗くて全然見えないやと思っていたら、電球が切れていたんだ。宇佐市院内町は、国指定特別天然記念物「オオサンショウオ」が自然に生息する南限地です。

 タッチパネルはずっと故障中だし、荒瀬橋の音声案内も故障中だし、おまけに荒瀬橋に行くための標識も何となく見づらい。
道の駅「石橋ステーション」
 
 グロテスクな格好をしていますが、目は小さくて可愛いですよ。戦後薬用として乱獲されたそうです。
恐竜よりも先に出現したと云われる「オオサンショウオ」は、当時の両生類の特徴をそのまま受け継いでおり「生きた化石」と呼ばれています。
1.頭や、体の幅が広く、上下に平たくて首が短い。 
2.目の発達が遅れていて小さい。
3.4本の足が太くて短く、陸上では充分体を支えて歩くことができない。(胴長、短足・・・だれかに似ている) 
4.幼生期はエラ呼吸、成体は肺呼吸をしています。しかし乾燥に耐えられず一生水中生活をおこなっている。
展示中の「オオサンショウオ」が令和3年2月26日頃に死亡しました。老衰だそうです。

体長 109cm 櫛野橋の近くの高鼻川で動けなくなっているところを保護されました。


荒瀬橋

 荒瀬橋は、2連アーチの中でもっとも整っためがね橋といわれています。橋高 18.3m
 橋長 47.4m 径間 15.1m〜16.1m 2連

◎ 左上 展望台から見た荒瀬橋 半分しか見えません。

◎ 上 仕方がないので、国道387号の橋の上から撮影。(歩道側でないので危険)

◎ 右 荒瀬橋の音声案内 故障していて説明は聞けなかった。

※ 石橋地図は、院内町教育委員会・院内町文化財調査委員会発行の「院内町の石橋」 平成15年10月 改訂版発行(2) から転載させていただきました。
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