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お取り越し 東・西本願寺四日市別院
お取越しは、毎年12月の11日から16日までの6日間、宇佐市大字四日市にある東・西本願寺四日市別院にて行われる「宗祖親鸞聖人の御恩に感謝する報恩講御引上会」を指しています。(※東別院では12日から)
親鸞聖人は、弘長2年11月28日に亡くなられましたが、この日を太陽暦に換算すると1月16日となります。西本願寺では1月9日から16日まで「御正忌(ごしょうき)報恩講」が勤まりますが、各地では本山より日を繰り上げて行う「引上会」となります。早めにお勤めをすませて、ご本山の御正忌報恩講にお参りしましょう ということだそうです。
この期間には市内のみならず市外・県外からも多くの方がお参りに訪れ、寺周辺の路上には、果樹の苗木などをはじめ、たこ焼き、焼きそば、おもちゃなどの露店が出店します。
※ 親鸞聖人はなぜ「上人」ではないのか?
もともと聖人とは、念仏聖(ねんぶつひじり)であり、下級の民間布教者の称号です。それに対して上人とは、朝廷などから認知された徳の高いお坊さんの称号です。親鸞なき後、しばらくは「親鸞上人」と記される時代がありますが、その後本願寺教団では門主を「上人」と呼び、親鸞を「聖人」と呼ぶようになりました。本来の意味から外れて、「聖人」は「上人」よりも崇高な人であると解釈したようにあります。
浄土真宗本願寺派四日市別院の御堂 九州最大の木造建築といわれ、正面29.5m、奥行き31.5m。安政6年(1859)に建てられたもので、釘は1本も使われていないそうです。 平成の大修理(H10-12)で綺麗な屋根になったが、かかった費用が5億円。門徒も大変だった。(-_-;) 2008.12.15 沿革等については下記を参照してください。 http://www2.plala.or.jp/nishibetsuin/history.html |
真宗大谷派四日市別院の御堂 2008.12.15にお参りしたときは、広場正面に仏教関係団体が店を出していたため写真が撮れなかった。 東別院は戦国時代に四日市の豪族渡辺氏が開いた「新勝寺」を起源としています。延享元年(1744)には京都本願寺の別院となり、豊前四日市御坊として、九州の東本願寺派を統括しました。 現在の御堂は、御許山騒動で焼失した後、明治13年(1880)に建てられた。 2009.05.12撮影 沿革等については下記を参照してください。 http://guga-gubutsu.com/3_betuin/betuin_annai.html |
西別院 九州最大級の木造建築 2008.12.15 |
東別院の重層山門 御許山騒動でも焼けずに残りました。慶応元年(1865)の建立だそうだ。 2008.12.15 |
西別院御堂 2008.12.15 | 東別院 山門の飾り 2008.12.15 |
西別院山門・太鼓楼 実は山門の前にも屋台が出ていると思っていたが・・・、寂しい限りだった。 2008.12.15 | 東別院山門(正面) 2008.12.15 |
西別院 鐘楼 2008.12.15 |
東別院山門の説明板 2009.05.12 |
宇佐市四日市の西別院入り口 2008.12.15 |
西別院(右)及び東別院(左)遠景 響山公園 小菊の池から 2009.05.12 |
宇佐地方事務所跡の道路を挟んだ反対側(四日市警察署跡)で販売されていた苗木市。 昔はたくさん来ていた陶器の市はなかった・・・もちろん見せ物小屋も。 2008.12.15 | 東・西本願寺別院の門前町、宇佐市四日市の旧中心街 左側の駐車場は宇佐地方事務所(大分県四日市連絡事務所)跡 宇佐地域の政治・経済の中心だった。 この旧国道10号を、真っ直ぐちょこっと行ったところに飲屋街があります。仕事を辞めたら飲みに行く回数が減った。この前行ったら「七夕様だね」と言われた。(1年に1回の織姫と彦星の旨) 2008.12.15 |
山門ライトアップ・灯明
平成22年の「お取り越し」が西別院で12月11日から、東別院で12月12日から開催されています。11日夜にはお参りに行き、東本願寺別院寺の山門のライトアップと、灯明の写真を撮りました。
山門も昼(上の写真)と比べて趣があります。灯明のオブジェは幼稚園児ゃ児童、シルバーさん等が作成してくれていました。全部で7500個。
ライトアップされた東本願寺別院山門 | 西本願寺別院前の出店 |
オブジェ フラッシュ付き | オブジェ フラッシュなし |
子供達が作成したオブジェ | さすがに「お取り越し」 お坊さんのオブジェも |
左上 警察署跡地に作られたオブジェ。単なる飾り? 上 見物やぐらから見たら絵を描いていました。? 左 な〜んだ、宇佐市名物の唐揚げマスコットの「うさからくん」だったのか! |