田染荘(たしぶのしょう)

荘園制度について
 日本の支配体制は、律令制という公地公民を基礎とする中央集権国家体制でした。
 しかし、奈良時代の中頃に墾田永世私財法という法律によって私的な領地が認められたことで有力者が水田開発をおこない、私的所有地が拡大していきました。
 これが初期荘園と呼ばれるもので、水田耕作可能な墾田地のことを指していました。
 やがて、墾田地以外の土地も含め荘園と呼ばれるようになり、地方支配の単位的なものとなりました。

※公地公民=全ての土地と人民は公 - すなわち天皇に帰属するとした制度
 田染荘小崎地区の風景(02.09.28)
 荘園の支配は主に中央に荘園領主が存在し、荘官と呼ばれる地方の在地系役人が当てられていました。また、領主たちは自分の土地を守るために、更に有力な貴族・寺社などに寄進をおこない所領の安堵を図りました。その最有力が藤原摂関家や皇室でした。
 これらは寄進地系荘園と呼ばれています。荘園領主は国家に租税を納めなくていいといった権利や国司などの立ち入りを拒否する権利を獲得し、律令制度下の班田制がくずれ、荘園が土地の支配制度の中心となりました。
 しかし繁栄を極めた荘園領主たちも、武士の台頭により守護・地頭といった武家勢力に侵略され、荘園支配も武士の手に移っていきます。そしてついには豊臣秀吉の太閤検地により消滅しました。

 田染荘(たしぶのしょう)について
 田染荘は、宇佐神宮領の「本御荘十八箇所」と呼ばれる根本荘園の一つでした。
 宇佐宮は平安時代の終わりには、2万町歩を越える荘園を所有する全国屈指の荘園領主で、この田染荘はその中でも最も重要視された荘園でした。
 面積は全体でおよそ90町歩と言われ、もともと古代の田染郷の流れをくむ本郷(40町)を基本に、平安時代中期に開発された吉丸名(30町)が加えられた地域で、現在の田染地区(旧田染村)の範囲であったと考えられています。
 延 寿 寺
小崎(おさき)地区について
 小崎地区は鎌倉時代の終わり頃の景観を良く残している地域です。特に鎌倉時代末には神領興行の舞台となった場所として知られています。
 宇佐神官「田染定基」は大友一族の小田原氏より神領興行法と言われる、寺社の領地と分かれば所領の返還を求めることができる法律を利用して小崎(尾崎)地区を中心とした領土を奪回して小崎の台地にあった館を拠点としました。
 この田染氏は、武士化が顕著になったため神官の職を解かれ途絶えますが、その後宇佐神宮の神官宇佐氏が入り、後期田染氏を名乗ります。 
 朝日・夕日岩屋に向かって祈る峰入り行者(00.03.26)
 この尾崎屋敷は次第に城郭化していき小崎城と呼ばれ、現在は延寿寺の境内地となっており、後期田染氏の「宇佐栄忠」の銘が彫られた石殿が残されています。
 また、この頃にはすでに現在の集落の原型が出来あがっていたと考えられ、田染氏の尾崎屋敷をはじめ飯塚屋敷・為延屋敷といつた10軒以上の屋敷がありました。これらの集落を中心に水田経営がなされたと考えられます。
小崎地区の水田は荘園開発の一つのモデル的な様相を呈しており、貴重な資料であるとされています。
 赤迫地区では、雨引神社から湧き出る湧水を利用して現在でも3枚の水田経営がなされています。この湧水は、どんな干害があっても枯れることがなかったといわれ、この地区の水田開発の原点であると思われます。
 そしてその後、井堰を利用した水田開発がなされ、大型の溜池を利用した現在の姿が形成されていったと考えられます。
 小崎地区を流れる清流
 延寿寺石殿
 この石殿は、もともとは朝日・夕日岩屋から延寿寺にのぼる道路の登り口付近にあったといわれるもので、田染氏と小崎地区との深いかかわりを示す重要な資料です。正面と背面に六地蔵、側面に虚空蔵菩薩像と応仁2年(1468)大願主宇佐栄忠の銘が彫られねもう一方に脇侍を伴う聖観音菩薩像が厚肉彫りで彫られています。


(以上は、2000年2月27日に開催された「荘園の里を歩こう会」において配布された資料から転載しました。)
小崎地区の今後について
 当地区は圃場(ほじょう)整備事業の遅れている地域で、旧田染村でも山あいの地域になります。40%は越えているだろうと思われる高齢化率の中、圃場整備をせずに山あいの小区画の水田を守っていけるのだろか。
 開発から取り残されたことを逆手にとって、21世紀に羽ばたくことが出来るのかどうかは、高齢化の進展に伴い地域の活力が喪失するのと、豊後高田市と地元が頑張って基礎を固めることのどちらが早いかにかかっていると思われます。 付近には「真木大堂」や「富貴寺」や「熊野磨崖仏」などがあり、また、利用されずに荒れ果てている青少年旅行村や作りかけて途中で止めてしまった古代文化公園もあります。 
 道 端 の 石 仏 
 小崎地区周辺には、磨けば光る素材がごろごろとあります。
 地区の方々はこの景観を守っていくことを決めました。ここには子供の頃遊んだそのままの風景があり、心が落ち着きます。また、この小崎地区は昔の風景が残っているだけが貴重なのではなく、神領興行などの歴史資料の多いことと、その資料に基づいて、鎌倉時代の様子を想像することができる状態で現在に引き継がれていることに意義があります。地元の熱意だけで保存することはほとんど不可能な状況であり、心のふるさとを求める多くの方々の協力が求められています。今後も四季折々の田染荘を伝えて参ります。

00.03026
 国東半島の六郷満山(天台宗)の僧が浄衣を着て満山の開祖・仁聞(にんもん)菩薩の
難行にならって、寺院や霊場、峰々を巡る「峰入り行」が、3月26日から5日間行われま
した。
 全行程150キロのうち、田染荘においては、真木の大堂−−古代文化公園−−
間戸の青少年旅行村跡地−−朝日・夕日
岩屋−−小崎地区−−富貴寺とまわりました。

 熊野磨崖仏から真木大堂へ(00.03.26)  穴井戸観音(02.09.28)
 朝日・夕日岩屋と行者  青少年旅行村前のコスモス(02.09.28)


小崎地区の地図

 案内マップは拡大すれば文字が判読できます。


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